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小野市エリア
小野市立好古館
小野市の歴史・文化に関する資料などを収蔵・展示している歴史博物館
小野藩一柳家の陣屋跡に所在する歴史博物館です。
小野市の地理・歴史を常設展で紹介すると共に、地域に密着した特別展や企画展の開催を行っています。
また、十二単などの着付け体験のほか、茶室「柳風亭」では、茶道教室や茶会などを開催しています。
観光ボランティアガイド「小野ガイドひまわり」をご利用いただくと、無料で施設のご案内を致します。
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小野市エリア
金鑵城遺跡広場
青野ヶ原台地上に築かれた中世の山城で、城主は播磨守護職であった赤松氏の有力な家臣中村氏とされています。城の周囲を囲む土塁や木橋、門、櫓などが復元され、往時の姿を知ることができます。また、弥生時代には、高地性集落が営まれ、6棟の竪穴住居も検出されています。晴れ渡った日には、明石架橋の鉄塔を見ることもできます。
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小野市エリア
国宝・浄土寺
浄土寺は、鎌倉時代、建久3年(1192)に、源平合戦の兵火により焼失した東大寺を再建するための責任者(勧進職)となった重源上人が建立した寺院です。浄土堂は、大仏様という技法を全国で唯一伝える貴重なお堂です。本瓦葺、宝形造の建物で、屋根の勾配が直線的に下り、外観は低く見えますが、内部に入るとその広さに驚かされます。柱間は6mと広く、天井を張らない化粧屋根裏や太い柱に挿された挿肘木(さしひじき)で虹梁(こうりょう)を支えているのが特徴です。また、西側の壁部は蔀戸となり、中央の円形須弥壇上に配された本尊の阿弥陀如来及び両脇侍立像に夕日の光を当て、来迎の姿を表現する構造となっています。信仰の場であるとともに、自然の光を使った芸術、オブジェともいえます。 国宝・阿弥陀如来及び両脇侍(観音・勢至)立像は、名仏師の快慶の作で、浄土堂の本尊となる巨像です。衣紋や長く延びた指などに中国、宋の様式が感じられます。西の蔀戸から西日が差し込むとその光が本尊を赤く染めます。さらに足元の雲座あたりをかすませ、本尊が雲に乗って浮かんでいるように見えます。まさに西方浄土の姿を人々に伝えるために造られたものといえます。 6、7月には林道をあじさいが彩ります。
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小野市エリア
国史跡 広渡廃寺跡歴史公園
7世紀後半に建立された古代寺院跡で、東西両塔、金堂、講堂などが確認され、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが明らかとなっています。現在、史跡公園として整備・復元され、基壇とよばれる建物の基礎や縮尺1/20の伽藍縮小模型などにより往時の姿を偲ぶことができます。出土品を展示しているガイダンスホールも併設しています。
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三木市エリア
ギャラリー湯の山みち
湯の山街道の歴史資料館ギャラリー湯の山みちは、歴史街道と認定された湯の山街道の起点旧三木町の東入口に近く、今も格子戸造りの家並みを残す町筋に有ります。「染形紙」や「そろばん」「古生代のアンモナイトや三葉虫など多彩な化石」を展示している。中でも、染形紙は三木市内において最多のコレクションであり、その歴史や技術、デザインを調査研究する上で欠かすことができない貴重な資料群である。
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三木市エリア
国登録文化財 旧小河家別邸
明治時代後期に、小河秀太郎氏が別邸として建築したもので、敷地は南北に細長く、弓形に曲がる北面道路と南側の露地に面して広大な屋敷が広がっています。 小河家住宅は別邸として小河秀太郎が建設しました。秀太郎は米穀商を生業とした太吉の次男として弘化4(1847) 年に生まれ、9才の時に石州(島根県)浜田藩士戸川家の養子になり、廃藩置県後三木市に帰り明石の豪商米沢長兵衛の教えを受けて実業家の道を歩みました。明治9(1876)年に酒造業を開始し、その後、三木銀行の創立に関与するなど金融業も営み、県会議員の任を受ける等、当地の有力な実業家でありました。建設年代は不詳ですが、所有者の聞き取りから考えて、明治時代後期と考えられます。屋敷は、北面中央に「表門」を構え、表門から西側に「番人小屋」を配置し、北西隅から西面境界に沿って南北に、「納戸」及び「女中部屋」等の付属的な建物を構え、敷地の南半に主屋群を建てています。「主屋」はロの字型の平面計画として中央に中庭を設け、北側から東面にかけて主要室を配し、北西隅から西側にはユーティリティを集めて南面を「離れ」とする。南側の離れは、「裏門」の寄付脇から階段を挟んで、六畳和室、八畳和室の表門アプローチ2室続の部屋を構え、東に蔵前、「土蔵」を設けています。なお、敷地の周囲は約1m~2mの高さに石垣を積み表門の東端から北面、東面、南面の裏門までを高塀で囲んでいます。 主要室には上段の間が設ける等、明治時代の國包(現在、加古川市)建具工や大工の水準の高さを示す一品となっている。使用された技術は、見えがかりは全て和風で、見え隠れも小屋組を和小屋組にする等、伝統的な技術によって建設されています。 明治時代となり金融業を初め、各種事業に成功した者が、近世主屋小屋組から続く当地の技術を屈指して全国から取寄せた銘木を惜しげなく使用し、自由に表現した建物で、再建が困難な貴重なものとなっています。
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三木市エリア
三木金物まつり
『三木金物まつり』は1952年に4日間に渡り、金物見本市として開催されたのが最初です。現在では例年、市内外から約16万人の来場者が訪れる、三木市の一大イベントとなっています。 行われているイベントとしては、金物の展示のみならず、地元の学生達によるダンスパフォーマンスや丸太切り競争、農業まつり、B級グルメの露店など様々で、来場者の皆さまを賑わせています。
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- 伝統芸能・祭り
三木市エリア
八幡の森史跡公園[淡河弾正の墓]
三木城主別所長治と婚姻関係にあり、同盟を結んでいた淡河弾正の墓。淡河城主淡河弾正忠定範は智勇共にすぐれた武将で、秀吉の弟の秀長軍が攻めてきた時、雌馬の群を放って、騎馬軍勢を混乱させ、城に火をつけてその隙をついて三木城へ逃げのびます。平田、大村の合戦でも大活躍しますが、撤退の途中に八幡の森で割腹してみごとな最後をとげました。
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- 公園、 歴史・文化
三木市エリア
戎神社
1月第2土曜日が宵えびす、翌日の日曜日が本えびす、翌々日の月曜日が残り福。「三木のえべっさん」として知られるこの神社は、西宮神社から勧請されて創建されたと伝えられています。延享4年(1747年)の「三木町寺社帳」に西宮の分社としての記録がみられます。祭神としては、七柱(※詳細は下記)が祀られています。今宮のえびすさん『事代主命』と、西宮のえべっさん『蛭子命』の両方が祀られているのが特徴です。
創建年は不明であり、当初は大塚町の西端で、湯の山街道沿いにある極楽寺境内にあったとも、現在の参道部分にあったとも諸説あります。明治11年(1878年)3月18日に現在の場所に移築されたが、移築当初は空き地に小さな建物程度だったと言われています。その後、年ごとに盛況を見るようになり、現在に至ります。
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三木市エリア
正法寺古墳公園
三木市は、美嚢川流域の古墳群をはじめ、数多くの文化財・文化遺産が点在し、永い歴史の中で今日の発展を遂げてきました。その中にあって正法寺古墳群は本市を代表する古墳であり、市民の皆様に本市の歴史にふれ、知っていただくための市内初の古墳公園です。この古墳群は、正法寺地区団体営ほ場整備事業に伴い、平成6年6月から平成7年2月にかけて発掘調査を実施し、調査の結果、横穴式石室を主体部に持った16基(調査は9基)の古墳で構成されたものであることを確認いたしました。なかでも1号墳は天井石まで残る良好な状態でありましたが、それ以外はほ場整備工事の関係で取り壊しもやむを得ないと考えましたが、横穴式石室の形態や変遷を知る上で貴重な資料を得る市内でも数少ない横穴式石室の古墳群であるため保存することにしました。なお、点在しての現状保存は、ほ場整備事業にも支障をきたすため、正法寺地区の協力をいただき、1号墳の周囲に比較的保存が良好な2号墳と3号墳の石室を移設復元し、保存を図るとともに露出展示が行えるように整備しました。今後は、市民の方々をはじめ、子どもたちの郷土学習の教材として、またハイキングコースや地域住民の皆様の憩いの場などとして大いに活用、親しんでいただければ幸いです。正法寺古墳調査地全景正法寺古墳群は、正法寺集落の背後、美嚢川と加古川の合流地を望む段丘上から正法寺山にかけて所在する古墳群で、横穴式石室を埋葬施設とする9基の古墳から構成されています。平成6年度に、1号墳から4号墳が所在する段丘上で、ほ場整備事業が行われることになり、市教育委員会ではこの4基と新たに発見された1a号墳、1b号墳及び10号墳から12号墳の5基を対象に発掘調査を行い、正法寺古墳の概要が明らかになってきました。調査した古墳の主なものについて紹介します。・1b号墳は1号墳の墳丘東裾から確認した古墳で、石室の残存長約5.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約1.4mを測り、左片袖の構造を意識して構築されていました。 ・2号墳は、墳丘と天井石及び左側壁の一部を失っていましたが、石室長約6.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約2.0mを測り、右片袖の石室を構築しています。床面から直刀や須恵器高坏などの遺物が多く出土しました。 ・3号墳は墳丘が削られ、天井石を失っていましたが、石室長約4.8m、幅約1.3mを測る無袖の石室を構築しています。 ・4号墳は全壊の状況でしたが、奥壁と床面を検出し、石室長約8.1m、羨道幅約1.5m、玄室幅約1.8mを測り、右片袖の石室が構築されていたと推定できました。床面からは、金製のイヤリングなどが出土しました。 ・10号墳は3号墳の南から確認された古墳で、墳丘の形態を失い、石室も半壊していましたが、羨道幅約1.5m、玄室幅約2.1mを測る両袖の石室が構築されていたと推定できました。羨道部からは0.8×1.3mの石組の石棺が出土したほか、釣鐘型の須恵器蓋などの遺物がまとまって出土しました。 正法寺古墳群の立地は重要な位置を含め、また、数少ない横穴式石室の古墳で構成しているほか、無袖、片袖、両袖と、石室構造の形態や変遷を知る貴重な資料が得られました。
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三木市エリア
愛宕山古墳
愛宕山古墳は、標高74mの弁天山に直続する地点に立地し、丘陵尾根にそって主軸を南北にとり、前方部を北にむけて築造された前方後円墳である。古墳の南側では、尾根が幅を狭め、ここを里道が東西に通るように、北からの尾根がひと区切りをなしている。後円部の頂部は標高44mで、おそらく南側に比べていくぶん高い尾根となっていたのではないかと思われる。古墳の築造に際しては、低い尾根のうちでも、低い南側とは区切られてやや高くなっていた地点を選択したと考えられる。なお、加古川市との境界は、ほぼ低平な頂部の西縁に沿って走っており、愛宕山古墳の墳丘は、すべて三木市側におさまっている。
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