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三木市エリア

ネスタリゾート神戸

緑豊かな大自然を眺めながらの本格リゾートステイが満喫できる「ホテル・ザ・パヴォーネ」。日本の美と現代的なデザインが融合した雅モダンな空間が優雅なひとときを演出するとともに、グルメや温泉、各種イベントなど、ご滞在中のお楽しみもふんだんにご用意。広大なネスタリゾート神戸の中央に位置し、各アクティビティへ向かう拠点としてもご活用いただけます。どうぞ思う存分、羽をお伸ばしください。ネスタリゾート神戸オフィシャルリゾートホテル&関西No1露天風呂「天然温泉延羽の湯」団体様向けのホテル109室をはじめ、コテージなど全8種類の宿泊施設を完備・ネスタリゾート神戸ホテル・プレミアテラス「本能を揺さぶる大興奮」の期待や感動を皆で共有。ホテルでリラックスしながら心の繋がりを感じる。・グランピングキャビン「本能を揺さぶる大興奮」は冷めやらず、仲間と気兼ねなく興奮の継続、共有、思い出作りをわいわい楽しんでください。・メゾネットスイートヴィラ・ロイヤルスイートヴィラ「本能を揺さぶる大興奮」を終え、自然に囲まれたヴィラで自然体になり、リラックスしながら、別荘ライフを楽しみ、心の繋がりを感じてください。

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  • スポーツ・レクリエーション、 ホテル

三木市エリア

MIKI夢ステーション

三木鉄道の跡地を地域の方々にとって楽しく元気になれる場所にしようと、平成22年に「三木鉄道記念公園」が整備されました。 旧三木駅舎は鉄道資料の展示と休憩スペースからなる「三木鉄道ふれあい館」に、旧車庫は惣菜や日用品などを販売する農産物直売所「MIKI夢ステーション」に生まれ変わりました。 「MIKI夢ステーション」内には地元産の食材を使ったお食事処「えぷろん三木」があり、日替わり定食や、手作りのミニケーキ付のコーヒーをお手頃価格で提供しています。 旬の地元野菜や花を随時入荷中です。 また、食料品や日用品、三木市関連商品の販売も行っています。 「えぷろん三木」のお弁当を始め、地元人気店のお惣菜の販売も人気です。

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三木市エリア

かじやの里メッセみき

天井高9m、1053㎡無柱の大空間です。
展示場への大型車輌やフォークリフトの乗り入れも可能で、大規模イベントの荷物や機材の搬入もスムーズにできます。
電気、給排水、ガス、電話回線を展示場内のピットから引き込み使用ができます。
音響、照明、空調、主催者事務室など、設備機器が充実した大変使いやすい展示場です。多様なニーズに対応する北播磨地域初の多目的展示ホール。敷地内無料駐車場325台、臨時駐車場250台。大小さまざまな展示会・イベントで幅広くご利用になれますのでお気軽にご連絡ください。場所は国道175号「道の駅みき」の隣です。

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三木市エリア

ギャラリー湯の山みち

湯の山街道の歴史資料館ギャラリー湯の山みちは、歴史街道と認定された湯の山街道の起点旧三木町の東入口に近く、今も格子戸造りの家並みを残す町筋に有ります。「染形紙」や「そろばん」「古生代のアンモナイトや三葉虫など多彩な化石」を展示している。中でも、染形紙は三木市内において最多のコレクションであり、その歴史や技術、デザインを調査研究する上で欠かすことができない貴重な資料群である。

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三木市エリア

国登録文化財 旧小河家別邸

明治時代後期に、小河秀太郎氏が別邸として建築したもので、敷地は南北に細長く、弓形に曲がる北面道路と南側の露地に面して広大な屋敷が広がっています。 小河家住宅は別邸として小河秀太郎が建設しました。秀太郎は米穀商を生業とした太吉の次男として弘化4(1847) 年に生まれ、9才の時に石州(島根県)浜田藩士戸川家の養子になり、廃藩置県後三木市に帰り明石の豪商米沢長兵衛の教えを受けて実業家の道を歩みました。明治9(1876)年に酒造業を開始し、その後、三木銀行の創立に関与するなど金融業も営み、県会議員の任を受ける等、当地の有力な実業家でありました。建設年代は不詳ですが、所有者の聞き取りから考えて、明治時代後期と考えられます。屋敷は、北面中央に「表門」を構え、表門から西側に「番人小屋」を配置し、北西隅から西面境界に沿って南北に、「納戸」及び「女中部屋」等の付属的な建物を構え、敷地の南半に主屋群を建てています。「主屋」はロの字型の平面計画として中央に中庭を設け、北側から東面にかけて主要室を配し、北西隅から西側にはユーティリティを集めて南面を「離れ」とする。南側の離れは、「裏門」の寄付脇から階段を挟んで、六畳和室、八畳和室の表門アプローチ2室続の部屋を構え、東に蔵前、「土蔵」を設けています。なお、敷地の周囲は約1m~2mの高さに石垣を積み表門の東端から北面、東面、南面の裏門までを高塀で囲んでいます。 主要室には上段の間が設ける等、明治時代の國包(現在、加古川市)建具工や大工の水準の高さを示す一品となっている。使用された技術は、見えがかりは全て和風で、見え隠れも小屋組を和小屋組にする等、伝統的な技術によって建設されています。 明治時代となり金融業を初め、各種事業に成功した者が、近世主屋小屋組から続く当地の技術を屈指して全国から取寄せた銘木を惜しげなく使用し、自由に表現した建物で、再建が困難な貴重なものとなっています。

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三木市エリア

三木金物まつり

『三木金物まつり』は1952年に4日間に渡り、金物見本市として開催されたのが最初です。現在では例年、市内外から約16万人の来場者が訪れる、三木市の一大イベントとなっています。 行われているイベントとしては、金物の展示のみならず、地元の学生達によるダンスパフォーマンスや丸太切り競争、農業まつり、B級グルメの露店など様々で、来場者の皆さまを賑わせています。

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三木市エリア

八幡の森史跡公園[淡河弾正の墓]

三木城主別所長治と婚姻関係にあり、同盟を結んでいた淡河弾正の墓。淡河城主淡河弾正忠定範は智勇共にすぐれた武将で、秀吉の弟の秀長軍が攻めてきた時、雌馬の群を放って、騎馬軍勢を混乱させ、城に火をつけてその隙をついて三木城へ逃げのびます。平田、大村の合戦でも大活躍しますが、撤退の途中に八幡の森で割腹してみごとな最後をとげました。

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  • 公園、 歴史・文化

三木市エリア

本長寺

冬の義民祭 江戸時代に、羽柴筑前守秀吉の免租の制札を持ち、徳川幕府に直訴した岡村源兵衛、大西与三右衛門の両義民の遺徳をしのぶ墓前祭です。

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三木市エリア

戎神社

1月第2土曜日が宵えびす、翌日の日曜日が本えびす、翌々日の月曜日が残り福。「三木のえべっさん」として知られるこの神社は、西宮神社から勧請されて創建されたと伝えられています。延享4年(1747年)の「三木町寺社帳」に西宮の分社としての記録がみられます。祭神としては、七柱(※詳細は下記)が祀られています。今宮のえびすさん『事代主命』と、西宮のえべっさん『蛭子命』の両方が祀られているのが特徴です。

創建年は不明であり、当初は大塚町の西端で、湯の山街道沿いにある極楽寺境内にあったとも、現在の参道部分にあったとも諸説あります。明治11年(1878年)3月18日に現在の場所に移築されたが、移築当初は空き地に小さな建物程度だったと言われています。その後、年ごとに盛況を見るようになり、現在に至ります。

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三木市エリア

正法寺古墳公園

三木市は、美嚢川流域の古墳群をはじめ、数多くの文化財・文化遺産が点在し、永い歴史の中で今日の発展を遂げてきました。その中にあって正法寺古墳群は本市を代表する古墳であり、市民の皆様に本市の歴史にふれ、知っていただくための市内初の古墳公園です。この古墳群は、正法寺地区団体営ほ場整備事業に伴い、平成6年6月から平成7年2月にかけて発掘調査を実施し、調査の結果、横穴式石室を主体部に持った16基(調査は9基)の古墳で構成されたものであることを確認いたしました。なかでも1号墳は天井石まで残る良好な状態でありましたが、それ以外はほ場整備工事の関係で取り壊しもやむを得ないと考えましたが、横穴式石室の形態や変遷を知る上で貴重な資料を得る市内でも数少ない横穴式石室の古墳群であるため保存することにしました。なお、点在しての現状保存は、ほ場整備事業にも支障をきたすため、正法寺地区の協力をいただき、1号墳の周囲に比較的保存が良好な2号墳と3号墳の石室を移設復元し、保存を図るとともに露出展示が行えるように整備しました。今後は、市民の方々をはじめ、子どもたちの郷土学習の教材として、またハイキングコースや地域住民の皆様の憩いの場などとして大いに活用、親しんでいただければ幸いです。正法寺古墳調査地全景正法寺古墳群は、正法寺集落の背後、美嚢川と加古川の合流地を望む段丘上から正法寺山にかけて所在する古墳群で、横穴式石室を埋葬施設とする9基の古墳から構成されています。平成6年度に、1号墳から4号墳が所在する段丘上で、ほ場整備事業が行われることになり、市教育委員会ではこの4基と新たに発見された1a号墳、1b号墳及び10号墳から12号墳の5基を対象に発掘調査を行い、正法寺古墳の概要が明らかになってきました。調査した古墳の主なものについて紹介します。・1b号墳は1号墳の墳丘東裾から確認した古墳で、石室の残存長約5.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約1.4mを測り、左片袖の構造を意識して構築されていました。 ・2号墳は、墳丘と天井石及び左側壁の一部を失っていましたが、石室長約6.4m、羨道幅約1.1m、玄室幅約2.0mを測り、右片袖の石室を構築しています。床面から直刀や須恵器高坏などの遺物が多く出土しました。 ・3号墳は墳丘が削られ、天井石を失っていましたが、石室長約4.8m、幅約1.3mを測る無袖の石室を構築しています。 ・4号墳は全壊の状況でしたが、奥壁と床面を検出し、石室長約8.1m、羨道幅約1.5m、玄室幅約1.8mを測り、右片袖の石室が構築されていたと推定できました。床面からは、金製のイヤリングなどが出土しました。 ・10号墳は3号墳の南から確認された古墳で、墳丘の形態を失い、石室も半壊していましたが、羨道幅約1.5m、玄室幅約2.1mを測る両袖の石室が構築されていたと推定できました。羨道部からは0.8×1.3mの石組の石棺が出土したほか、釣鐘型の須恵器蓋などの遺物がまとまって出土しました。 正法寺古墳群の立地は重要な位置を含め、また、数少ない横穴式石室の古墳で構成しているほか、無袖、片袖、両袖と、石室構造の形態や変遷を知る貴重な資料が得られました。

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三木市エリア

愛宕山古墳

愛宕山古墳は、標高74mの弁天山に直続する地点に立地し、丘陵尾根にそって主軸を南北にとり、前方部を北にむけて築造された前方後円墳である。古墳の南側では、尾根が幅を狭め、ここを里道が東西に通るように、北からの尾根がひと区切りをなしている。後円部の頂部は標高44mで、おそらく南側に比べていくぶん高い尾根となっていたのではないかと思われる。古墳の築造に際しては、低い尾根のうちでも、低い南側とは区切られてやや高くなっていた地点を選択したと考えられる。なお、加古川市との境界は、ほぼ低平な頂部の西縁に沿って走っており、愛宕山古墳の墳丘は、すべて三木市側におさまっている。

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本要寺

~別所長治の首検分がされた寺~神戸電鉄三木駅下車徒歩5分。三木合戦で残ったお寺で、秀吉が最後の本陣とした。三木住民の税を免除した秀吉の制札を納めた宝蔵と、制札を守って町を救った三木義民を讃える碑があります。 毎年7月18日には「夏の義民祭」が開催される夏の義民祭 天正8年、三木城攻めを終わった羽柴秀吉は、寺院の中でただひとつ焼けなかった本要寺に本陣を移して、自刃した別所長治の首実検をしました。このあと、戦火をのがれて四散した町民百姓を呼び戻すため地子免許の制札を立てました。これは、長治の善政をそのまま真似たものですが、制札は後世になってもおおいに役立ちました。たびたびの領主替えになっても、先の領主にもらった書付け(地子免許状)を差し出して税や様々な労役を免れてきましたが、徳川の世「延宝の検地令」はその願望を打ち砕きました。そこで、本要寺を会合場所として町民の会合を開いた結果、平田町の大庄屋「岡村源兵衛」と、平山町年寄「大西与三右衛門」が江戸城へ直訴に出発しました。当時の直訴は死罪でした。延宝5年3月に三木を出立した二人は、老中にまで願い出ましたが結果は思わしくない秋を迎えました。この時、本要寺に残されていた秀吉の制札がみつかり、早速江戸へ届け出たため、有力な証拠となり、暮れもおしつまった12月24日になって幕府から赦免を認められました。しかも誠意が認められた二人は死罪を免れ、再び三木の地を踏むことができました。二人の没後、本要寺に二人を義民として顕彰する碑を建ててその功をたたえました。そうして制札や記録がいかに大切かを知った人々はその側に宝蔵を建て多くの文書を残しました。本要寺では7月18日に法要と古文書を虫干しし「夏の義民祭」を執り行っており、又、大西与三右衛門の墓がある本長寺では12月8日に法要と共に「冬の義民祭」を執り行っており、二人の功績をたたえています。

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